弁護士 清水 千晶
1 私は、事務所内の自分の席で、交渉相手との電話を切った直後に、ぐらぐらという大きな横揺れを感じた。
隣席でA弁護士、斜め後ろの背中合わせの席でB弁護士が執務中であった。横揺れが続く中、3人互い顔を見合わせている内 に、どんどん揺れは大きくなり、机上の棚からファイルが落ち始めた。
休憩場にあるテレビがつけられ、震度5強、震源地東北という情報に見入った。 事務所の壁にはロッカーが並び、向かい合わせに執務机との仕切りを兼ねた 本棚がずらっと並んでいるのであるが、縦6列の本棚の上段3段からは重い専門書類が次々に床に落下していった。それまでの地震では一度も本やファイルが落下したことはない。
一台のコピー機が床が滑って移動。ロッカーや本棚自体も倒れて来るのではないかという不安を感じた。
ロッカーや棚は倒れることはなかったが、各執務机からは、散乱した本をまたがないと出口まで歩けない状態となる。
お客様と打ち合わせをする相談室内に本棚はなく、また相談室に通じる通路壁には何も置かれていないので問題はなかった。ただ、たまたま、赤ちゃんを連れて来られているお客様が居て、事務員Cが乳母車をビル内の非常階段を使って階下まで降ろし始めた。
2 東京東部法律事務所は、JRと平行してはしる京葉道路に面した国宝ビルの6階にある。
錦糸町駅南口から目と鼻の先であるから、JRが止まったままなのはすぐにわかった。D事務員は妊娠中の事務員Eを帰宅させるため、京葉道路を走るタクシーをつかまえようとしていたが、すでにタクシーはつかまえられない状況だった。
地下鉄が動いていることを期待して往古駅まで歩く。結局地下鉄も止まったままで、F事務員が急速、自宅まで自転車で車を取りに戻り、往古駅にE事務員を迎えに。
住吉駅に着いたのは午後5時だったとのこと。
地震発生時、8人の弁護士と事務員7人が所内にいたが、皆、一時間以内には、それぞれ家族と電話やメールで連絡が取れて無事を確認。
所内にいた何人かは、綿糸公園に避難するのかな、と一端外に出たものの、JRが動き出すかもしれないという思いもあり、錦糸町駅前の事務所を離れる気にはなれなかった。
サイレンの音が途切れず聞こえ、錦糸町駅前広場には人が集まっていて町の雰囲気はいつもと全く違っていたけれど、避難所に行く必要はないだろう、これ以上大きな揺れはこないだろうと判断していた。
3 暗くなる前に、出先にいた所員らがぞくぞくと事務所に戻ってきた。
裁判所からの帰りの地下鉄内で地震に遭遇したG弁護士は大手町から徒歩で、総武線両国駅付近の電車内に閉じ込められていたH弁護士は、一部線路上を歩いて事務所に戻って来た。
現地調査中に地震に遭い、一端現場近くの公民館で様子見をしていた、I、J、Kの3弁護士も、口々に「怖かった」と言いなが ら事務所に戻ってきた。
弁護士会館に居たL弁護士、出張先にいたM、N、O弁護士は、それぞれ自宅に直帰することができ、暗くなる頃までには全ての弁護士の無事が確認できていた。 私は揺れる度に外の非常階段に通じるドアをあけて皆の避難経路を確保する役割をしているつもりでいた。その時まで、一度もこの階段を降りたことはなかったので本当に道路に出られるのか一抹の不安があり、ビル内の非常階段を使わずに外部階段を使って一端道路に出て、一階コンビニに飲料水やパンを買いに行った。 P弁護士は「今日は帰宅は無理だろう」と早々覚悟を決め、コンビニで買ったいなり寿司で腹ごしらえを始める。
テレビでは市原のコンビナートの爆発事故、東京九段で天井が落下したビルがあるという情報が流れ始める。
名取川付近の津波の映像も映し出されたが、田畑とビニールハウスを押し流している映像であったこともあり、この瞬間に、津波で多くの犠牲者が出ているという認識まではもっていなかった。
「被害の大きい地域の情報は入ってこないのだから、相当の被害が出ているのでしょうね」
とQ事務員が話し、確かにそうだとうなずきあってはいたものの、まさか阪神大震災以上の被害とまでは思ってもいなかった。
4 夜7時頃になると、京葉道路を歩いて帰宅する人々の列が出来はしめた。
裁判所に行く途中で地震に遭遇したR事務員は、提出締め切りの書面を提出しに裁判所までの道のりを走り続けた後、霞ヶ関から2時間かけて事務所に戻ってきた。
総武沿線都内に住むJ弁護士はO弁護士愛用の自転車がこの日に限って事務所に置いてないことに落胆しつつ徒歩で帰宅。また、総武線沿線千葉に住むS 弁護士、C事務員が徒歩で帰宅し、G弁護士も帰路についた。
夜8時頃になると浦安方面に住むH弁護士、練馬方面に住むB弁護士までも徒歩で帰宅をすると言い出した。
皆、徒歩で帰宅した経験はなかったが、うまく行けば途中で動き出す電車に乗れて今日中には帰宅できると考えていた。
残された人達は、このまま宿泊することになると、A弁護士個人所有の震災用食料が所内で高値で取引されるだろうと冗談を言い合ったりしつつ、揺れがくると不安な表情で皆互いを見合う、といった状況だった。
その内A弁護士は、奥様、お子さんが出先から事務所まで歩いて来られ、家族が事務所で落ち合うことができたので、賞味期限切れの備蓄品と共に事務所に泊まることになった。
5 私は、事務所に泊まらざるを得なかった。
が、夜9時頃、千葉遠方のT、U、 I弁護士、V事務員と私の5人をまとめて送り届けるとW事務員がワゴン車をどこかから借りてきてくれ事務所を出ることができた。
橋という橋で渋滞に巻き込まれつつも、ナビより道路に詳しいU弁護士が同乗していたおかげもあって、12目朝5時前頃までにこの5人は皆帰宅することができている。 自宅のポストには全く地震には触れられていない3月11目の夕刊が投函されていた。
(その後、K弁護士は徒歩で足立の実家に行き、X弁護士は動き始めた半蔵門線で帰宅。W事務員は朝7時過ぎに事務所に戻ったとのことだった。)